退屈を極めてから終わりを迎えたい

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もう仕事をやめて8年位経ったようだ。

とりあえず生活はできているし、1日がすぐ終わる感じでもうこんなに時間が経ったのだなと残念に思う事が多い。

もし働いていたら自由時間は年間休日が1/3だとすると2/3は労働にほぼ1日使うことになっていただろう。(労働のある平日に労働以外のことをやれるほど元気な人間じゃなかったので)

つまり、8年で3倍自由時間を得たのだから24年分の余暇を消費できたということだ。

働いていたら16年分の余暇は得られなかったということ。

そういう風に考えると随分先の年齢分まで自由を味わえてよかったなと思う。
会社をやめた頃は鬱っぽくて体調も悪いからもう数年でこの体は終わるのかなと思っていた(検査上の問題は無かったけど。)

自分は自由時間を過ごす天才なのかもしれない。少なくともたいして興味のないことで時間を潰すほどの暇は感じないし。ボケーッと物思いにふけるみたいなのは多いけど。

量より質だろうというツッコミはあるかもしれないが、自分に関してはお金があってできること、人間関係があってできることにさほど魅力も感じない(少なくともそれがあれば日々のQOLがぐんと上がると思うネタはない)のだから多分そんなに変わらないと思う。

まあ、自己否定につながる事は思考のガードがかかる(じゃないと鬱になる)ものらしいから、そういう風に思いたいだけかもしれないけどもね。

一人で居ることが基本的に好きな人間だから誰かに同じような生活を勧めようとは思わない。自分の異質さを自分ではよくわかっている。

娯楽や趣味は飽きたと思ったらまた熱中したり、新たに発掘したりを繰り返している。

まだ、労働に駆り立てるほどの暇は感じない。

金銭的な余裕というよりは危機のほうを考えたほうがいい水準だけど、まだやりたくない気持ちのほうが勝ってしまう。

退屈を極めたら時間が勿体ないから労働という視点も出てくるかもしれないし、フルじゃないにせよパートとかやるかもしれん。

でも、そうなる前に労働より創作系の自営収入に活路を求める気もするなあ(以前そんな記事を書いたな。)

まあ、どこかのタイミングで退屈を感じる事が増えて、もう何もやりたいことがない、暇だから労働で時間を金に変えるまたは安楽死を望むというレベルにまで人生に飽きてしまえば成仏できるんじゃないかと思う。

100年先、今このブログを読んでいる人も私も多分居ないだろう。

宇宙からの時系列から考えたら一瞬の時間に皆思い思いに生きているのが不思議なものだなと思う。

子孫(遺伝子)も、作品(ミーム)も、自分のコピー(クローン、意識のコピー)も、死後の世界も、生まれ変わりも、国や社会も、今の自分の体が終われば自分の知覚できる世界ではすべてが終わるだけと思っている自分には外のものがどうなろうと大した興味が湧かない(直接危害が来そうな事象は注意を払うけど)。

個体としてやりたいようにやりきるだけやって終わりたいだけということだ。

あ、社会や他人には良くも悪くもこんなもんだろうと思っているから犯罪に走ることはないと思う(←最近無敵の人が増えてるから勘違いされそうだと思い補足w)
・・・

それはともかく、週末に届くDTM用キーボードが楽しみだなあ。

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