その時を知れたなら

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死を半分認め受け入れた先にあるもの。

今をかみしめて生きよう、やりたいことをやっておこう、知らないことを知りたい、予定のない旅がしたい、気の合う人と暮らしたい、こんなものだった。

数億分の一の確率で生まれたのだから、死ぬときも数万分の一の偶然のような病気や事故で突然逝く可能性も許容しなくてはいけない。

許容しなくては前に進めない。恐れて停滞し、何かを待ち続け、時間を浪費しすぎるのもこれまたリスクなのだと思う。

体が不調になると、このまま悪くなって死ぬんじゃないかとか思いだして、「怖い」という思いと、「やれるうちにやっておきたい」という気持ちが揺れ動く。

不調を調べても何もないことが多いのだけれども。

ここのところ胃の不調で病院通いが続いてたが、意を決してカメラを飲んでみたら何もなかった。(ちょっと入口が緩い体質みたいだけど)

心と体はどちらかが良かったり悪かったりすると相互に干渉して、結局どちらが悪いのかわからなくなる。虚弱な人はマイナススパイラルに陥りやすい。

健康(生)が前提であり、その先に自分の持ち時間があり、その持ち時間をどう使うかというのが生きるということなのだから、健康は一番大事なのだ。

体調が崩れがちな人は健康の有難みがわかるから、現実的な可能性として死と向き合う意識ができる。

そういう意味では、常時健康な人よりもよいことなのかもしれない。

70歳まで働いてそれから楽しむだって? そんな楽観シナリオは理解できっこないのだ。

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